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社会について

<仏教に学ぶ生き方>

社会について

「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたい
との願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて
編集しております。ここでは私たちにとって身近
な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただ
けるように、『和英対照仏教聖典』の言葉
から抜粋して、ご紹介いたします。

社会の意義

社会とは、そこにまことの智慧(ちえ)が輝いて、互いに知りあい信じあって、和合する団体のことである。
まことに、和合が社会や団体の生命であり、また真の意味である。

(大般涅槃経)
『和英対照仏教聖典』449頁11行~14行

社会の現実相

この世には五つの悪がある。一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺(あざむ)き、互いに傷つけあい、いがみあっている。
二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。
三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。
四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。
五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。

(無量寿経下巻)
『和英対照仏教聖典』191頁18行~193頁18行

社会集団の型

世の中には三とおりの団体がある。
一つは、権力や財力のそなわった指導者がいるために集まった団体、
二つは、ただ都合のために集まって、自分たちに都合よく争わなくてもよい間だけ続いている団体、
三つは、教えを中心として和合を生命とする団体である。
もとよりこの三種の団体のうち、まことの団体は第三の団体であって、この団体は、一つの心を心として生活し、その中からいろいろの功徳(くどく)を生んでくるから、そこには平和があり、喜びがあり、満足があり、幸福がある。

(パーリ、増支部 3―118)
『和英対照仏教聖典』449頁15行~451頁7行

暗闇の野にさす光

広い暗黒の野原がある。何の光もささない。そこには無数の生物がうようよしている。
しかも暗黒のために互いに知ることがなく、めいめいひとりぼっちで、さびしさにおののきながらうごめいている。いかにも哀れな有様である。
そこへ急に光がさしてきた。すぐれた人が不意に現われ、手に大きなたいまつをふりかざしている。真暗闇の野原が一度に明るい野原となった。
すると、今まで闇を探ってうごめいていた生物が立ち上がってあたりを見渡し、まわりに自分と同じものが沢山いることに気がつき、驚いて喜びの声をあげながら、互いに走り寄って抱きあい、にぎやかに語りあい喜びあった。
いまこの野原というのは人生、暗黒というのは正しい智慧(ちえ)の光のないことである。心に智慧の光のないものは、互いに会っても知りあい和合することを知らないために、独り生まれ独り死ぬ。ひとりぼっちである。ただ意味もなく動き回り、さびしさにおののくことは当然である。
「すぐれた人がたいまつをかかげて現われた。」とは、仏が智慧の光をかざして、人生に向かったことである。
この光に照らされて、人びとは、はじめておのれを知ると同時に他人を見つけ、驚き喜んでここにはじめて和合の国が生まれる。

(大般涅槃経)
『和英対照仏教聖典』447頁1行~449頁8行

和合の人間関係

すべての心が水と乳とのように和合して、そこに美しい団体が生まれる。
だから正しい教えは、実にこの地上に、美しいまことの団体を作り出す根本の力であって、それは先に言ったように、互いに見いだす光であるとともに、人びとの心の凹凸を平らにして、和合させる力でもある。

(パーリ、増支部 3―118)
『和英対照仏教聖典』451頁13行~453頁4行

社会集団における和合の法

ここに教団和合の六つの原則がある。第一に、慈悲(じひ)のことばを語り、第二に、慈悲の行いをなし、第三に、慈悲の意(こころ)を守り、第四に、得たものは互いに分かちあい、第五に、同じ清らかな戒を保ち、第六に、互いに正しい見方を持つ。
このうち、正しい見方が中心となって、他の五つを包むのである。

(パーリ、律蔵大品、10―1―2
『和英対照仏教聖典』455頁4行~9行

仏教徒の社会的理想

ダミーテキスト

ねたみ、争う者は共に滅ぶ(たとえ話)

ある蛇の頭と尾とが、あるとき、お互いに前に出ようとして争った。尾が言うには、「頭よ、おまえはいつも前にあるが、それは正しいことではない。たまにはわたしを前にするがよい。」
頭が言うには、
「わたしがいつも前にあるのはきまったならわしである。おまえを前にすることはできない。」と。
互いに争ったが、やはり頭が前にあるので、尾は怒って木に巻きついて頭が前へ進むことを許さず、頭がひるむすきに、木から離れて前へ進み、ついに火の穴へ落ち、焼けただれて死んだ。
ものにはすべて順序があり、異なる働きがそなわっている。不平を並べてその順序を乱し、そのために、そのおのおのに与えられている働きを失うようになると、そのすべてが滅んでしまうのである。
非常に気が早く怒りっぽい男がいた。その男の家の前で、二人の人がうわさをした。
「ここの人は大変よい人だが、気の早いのと、怒りっぽいのが病である。」と。
その男は、これを聞くとすぐ家を飛び出してきて、二人の人におそいかかり、打つ、ける、なぐるの乱暴をし、とうとう二人を傷つけてしまった。 賢い人は、自分の過ちを忠告されると、反省してあらためるが、愚かな者は、自分の過ちを指摘されると、あらためるどころか、かえって過ちを重ねるものである。

(雑宝蔵経)
『和英対照仏教聖典』277頁5行~279頁8行

老人を尊敬せよ(物語)

遠い昔、棄老国(きろうこく)と名づける、老人を棄てる国があった。その国の人びとは、だれしも老人になると、遠い野山に棄てられるのがおきてであった。 その国の王に仕える大臣は、いかにおきてとはいえ、年老いた父を棄てることができず、深く大地に穴を掘ってそこに家を作り、そこに隠して孝養を尽くしていた。
ところがここに一大事が起きた。それは神が現われて、王に向かって恐ろしい難問を投げつけたのである。
「ここに二匹の蛇がいる。この蛇の雄・雌を見分ければよし、もしできないならば、この国を滅ぼしてしまう。」と。
王はもとより、宮殿にいるだれひとりとして蛇の雄・雌を見分けられる者はいなかった。王はついに国中に布告して、見分け方を知っている者には、厚く賞を与えるであろうと告げさせた。
かの大臣は家に帰り、ひそかに父に尋ねると、父はこう言った。
「それは易しいことだ。柔らかい敷物の上に、その二匹の蛇を置くがよい。そのとき、騒がしく動くのは雄であり、動かないのが雌である。」
大臣は父の教えのとおり王に語り、それによって蛇の雄・雌を知ることができた。
それから神は、次々にむずかしい問題を出した。王も家臣たちも、答えることができなかったが、大臣はひそかにその問題を父に尋ね、常に解くことができた。
その問いと答えとは次のようなものであった。
「眠っているものに対しては覚めているといわれ、覚めているものに対しては眠っているといわれるのはだれであるか。」
「それは、いま道を修行している人のことである。道を知らない、眠っている人に対しては、その人は覚めているといわれる。すでに道をさとった、覚めている人に対しては、その人は眠っているといわれる。」
「大きな象の重さはどうして量るか。」
「象を舟に乗せ、舟が水中にどれだけ沈んだか印をしておく。次に象を降ろして、同じ深さになるまで石を載せその石の重さを量ればよい。」
「一すくいの水が大海の水より多いというのは、どんなことか。」
「清らかな心で一すくいの水を汲んで、父母や病人に施せば、その功徳(くどく)は永久に消えない。大海の水は多いといっても、ついに尽きるときがある。これをいうのである。」
次に神は、骨と皮ばかりにやせた、飢えた人を出して、その人にこう言わせた。「世の中に、わたしよりもっと飢えに苦しんでいるものがあるであろうか。」
「ある。世にもし、心がかたくなで貧しく仏法僧の三宝を信ぜず、父母や師匠に供養(くよう)をしないならば、その人の心は飢えきっているだけでなく、その報いとして、後の世には餓鬼道(がきどう)に落ち、長い間飢えに苦しまなければならない。」
「ここに真四角な栴檀(せんだん)の板がある。この板はどちらが根の方であったか。」
「水に浮かべてみると、根の方がいくらか深く沈む。それによって根の方を知ることができる。」
「ここに同じ姿・形の母子の馬がいる。どうしてその母子を見分けるか。」

「草を与えると、母馬は、必ず子馬の方へ草を押しつけ与えるから、直ちに見分けることができる。」 これらの難問に対する答えはことごとく神を喜ばせ、また王をも喜ばせた。そして王は、この智慧(ちえ)が、ひそかに穴蔵にかくまっていた大臣の老いた父から出たものであることを知り、それより、老人を棄てるおきてをやめて、年老いた人に孝養を尽くすようにと命ずるに至った。

(雑宝蔵経)
『和英対照仏教聖典』265頁16行~271頁15行

師弟の道

南方の師弟の道とは、弟子は師に対し、座を立って迎え、よく近くで仕え、熱心に聴聞し、供養(くよう)を怠らず、慎んで教えを受ける。
それと同時に、師はまた弟子に対して、自ら身を正して指導し、自ら学び得たところをすべて正しく授け、よく会得したことを忘れないようにさせ、引き立てて名を表わすようにし、どこにあっても利益と尊敬が受けられるようにする。こうして南方の師弟の道は平和であり、憂(うれ)いがない。

(六方礼経)
『和英対照仏教聖典』425頁1行~9行

友人の道

北方の友人の道とは、相手の足らないものを施し、優しいことばで語り、利益をはかり、常に相手を思いやり、正直に対処する。
また友人が悪い方に流れないように務め、万一そのような場合にはその財産を守ってやり、また心配のあるときには相談相手になり、逆境のときは助けの手をのばし、必要な場合にはその家族を養うこともする。このようにして北方の友人の道は平和であり、憂(うれ)いがない。

(六方礼経)
『和英対照仏教聖典』425頁16行~427頁3行

友を選ぶ法

人は親しむべき友と、親しむべきでない友とを、見分けなければならない。
親しむべきでない友とは、貪(むさぼ)りの深い人、ことばの巧みな人、へつらう人、浪費する人である
親しむべき友とは、ほんとうに助けになる人、苦楽をともにする人、忠言を惜しまない人、同情心の深い人である。
ふまじめにならないよう注意を与え、陰に回って心配をし、災難にあったときには慰め、必要なときに助力を惜しまず、秘密をあばかず、常に正しい方へ導いてくれる人は、親しみ仕えるべき友である。
自らこのような友を得ることは容易ではないが、また、自分もこのような友になるように心がけなければならない。よい人は、その正しい行いゆえに、世間において、太陽のように輝く。

(六方礼経)
『和英対照仏教聖典』429頁5行~431頁2行

雇傭者と労働者の心得

下方の主従の道とは、主人は使用人に対して、次の五つを守る。その力に応じて仕事をさせる。よい食物と給与を与える。病気のときは親切に看病する。美味しいものは分かち与える。適当な時に休養させる。
これに対して使用人は、主人に五つの心得をもって仕える。朝は主人よりも早く起き、夜は主人よりも遅く眠る。何ごとにも正直であり、仕事にはよく熟練する。そして主人の名誉を傷つけないよう心がける。こうして下方の主従の道は平和であり、憂(うれ)いがない。

(六方礼経)
『和英対照仏教聖典』427頁4行~12行

教師の心得

またこの教えを説こうと思う者は、次の四つのことに心をとどめなければならない。第一にはその身の行いについて、第二にはそのことばについて、第三にはその願いについて、第四にはその大悲についてである。
第一に、教えを説く者は、忍耐の大地に住し、柔和であって荒々しくなく、すべては空(くう)であって善悪のはからいを起こすべきものでもなく、また執着すべきものでもないと考え、ここに心のすわりを置いて、身の行いを柔らかにしなければならない。
第二には、さまざまな境遇の相手に心をくばって、権勢ある者や邪悪な生活をする者に近づかないようにし、また異性に親しまない。
静かなところにあって心を修め、すべては因縁(いんねん)によって起こる道理を考えてこれを心のすわりとし、他人を侮らず、軽んぜず、他人の過ちを説かないようにしなければならない。
第三には、自分の心を安らかに保ち、仏に向かっては慈父の思いをなし、道を修める人に対しては師の思いをなし、すべての人びとに対しては大悲の思いを起こし、平等に教えを説かなければならない。
第四には、仏と同様に慈悲(じひ)の心を最大に発揮し、道を求めることを知らない人びとには、必ず教えを聞くことができるようになってほしいと心に願い、その願いに従って努力しなければならない。

(法華経第14、安楽行品)
『和英対照仏教聖典』395頁1行~397頁7行