35歳でさとりを開き仏陀(ブッダ=目覚めた人の意)の境地に到達した釈尊は、80歳で入滅するまでの45年間一日も休まずに人びとに教えを説き続けました。それは応病与薬とよばれるように、各人の能力や環境に応じて説かれたため、その量は極めて膨大なものでした。
釈尊の滅後、弟子たちは自分たちが直接釈尊から聴いた教えを人びとに伝えましたが、それらの教えを後世に正しく残すため、弟子たちの主なものが集まり教えの編纂を試みました。それぞれが釈尊から聴いた教えに誤りがないかどうかを確かめながら何カ月もかかって会議を続け定められた釈尊の教説が、書かれた教えとしての仏教の聖典となっていくのです。
釈尊の教えをまとめた「経」と、釈尊が制定した規則をまとめた「律」との集大成であった仏教の聖典に、これら二つのものに対する後世の高僧たちの注釈や解釈である「論」が加えられました。これを三蔵といいます。やがて釈尊の教えや規則に対する解釈の相違があらわれ、仏教教団は保守的な上座部と進歩的な大衆部との二つの大きな流れに分裂し、それぞれが自分たちの典拠とする仏教の聖典を保持してゆくようになったのです。
上座部の仏教は後にスリランカ、ミャンマー、タイ等の南方に伝わり、南方仏教と総称されます。その依るところの聖典は「経・律・論」からなるパーリ語で書かれた三蔵です。早くから西欧の学者に注目され、イギリスで校訂本と英訳が出され、それを和訳したのが昭和初期に完成した『南伝大蔵経』です。
進歩的な仏教は自ら大乗仏教と称し、独自の教理を発展させていきました。その経典は南方仏教と共通するものもありますが、如来蔵、中観、唯識といった論において発展し体系化がなされました。後期には密教が台頭し、そして仏教はインドにおいて姿を消してゆくのです。
西域を通じてインドの仏教が中国に伝わり、紀元2世紀には経典の中国語訳が行なわれていました。中国仏教の特徴の一つは経典の翻訳です。鳩摩羅什、真諦、玄奘、不空をはじめとして、多くの名僧かつ翻訳僧を輩出してきました。彼らは経・律・論の三蔵に精通していたので三蔵法師ともよばれました。翻訳には一種の解釈がつきもので、中国仏教にはインド仏教にない独自の解釈も生まれています。同一経典でも翻訳者が異なることによって二種以上あるものがあり、また中国人による著作も増し、それら重複・浩瀚を整理する意味で、皇帝の命による大蔵経の編纂が幾度か行なわれました。初め、経典は筆写によって伝わりましたが、宋代になると木版による印刷が行なわれるようになります。
日本への仏教の伝来は中国、朝鮮を通じて行われ、インドの原典の研究は明治までまたなければなりませんでした。すなわち漢訳として完成された経典が伝来したわけであり、インド仏教とはかなり趣を異にしているといえます。大蔵経は中国から伝わったものが主ですが、江戸時代初期には鉄眼が中国の大蔵経を底本として黄檗版大蔵経を出版しています。
明治以降は西洋の学問の影響を受け、原典研究が盛んになります。パーリ語、サンスクリット語の経典が紹介され、前述した『南伝大蔵経』の完成をみるのです。
チベット仏教も注目されます。7世紀にインドから伝わったとされるチベット仏教は密教色が濃く、経典としては多くのインド仏教の典籍を翻訳し、チベット大蔵経としてまとめられています。インドに大蔵経という形で仏教経典が見つからないという現状において、原典から忠実に訳されたチベット大蔵経のもつ意義は大きく、明治になって日本から河口慧海等の求道者が原典を求めてチベットに入っています。
原典研究の機運にうながされ、漢訳大蔵経の編集刊行も明治以降に活発となり、縮刷大蔵経、卍字蔵経などが刊行されました。
そして大正時代末期からは『大正新脩大蔵経』が刊行され、昭和に入って完成しています。これは朝鮮で開版された高麗大蔵経をはじめ、それまでの多くの版を対校し、より正確な大蔵経にするように努めたものです。現今の仏教界で主に用いられている大蔵経といえるでしょう。