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日常生活について

<仏教に学ぶ生き方>

日常生活について

「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたい
との願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて
編集しております。ここでは私たちにとって身近
な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただ
けるように、『和英対照仏教聖典』の言葉
から抜粋して、ご紹介いたします。

施して施しの思いを忘れよ

施した後で悔いたり、施して誇りがましく思うのは、最上の施しではない。施して喜び、施した自分と、施しを受けた人と、施した物と、この三つをともに忘れるのが最上の施しである。

(大般涅槃経)
『和英対照仏教聖典』335頁14行~337頁3行

無財の七施

世に無財(むざい)の七施(しちせ)とよばれるものがある。財なき者にもなし得る七種の布施行のことである。
一には、身施(しんせ)、肉体による奉仕であり、その最高なるものが次項に述べる捨身行(しゃしんぎょう)である。
二には心施(しんせ)、他人や他の存在に対する思いやりの心である。
三には眼施(げんせ)、やさしきまなざしであり、そこに居るすべての人の心がなごやかになる。
四には和顔施(わげんせ)、柔和な笑顔を絶やさないことである。
五には言施(ごんせ)、思いやりのこもったあたたかい言葉をかけることである。
六には牀座施(しょうざせ)、自分の席をゆずることである。
七には房舎施(ぼうしゃせ)、わが家を一夜の宿に貸すことである。
以上の七施ならば、だれにでも出来ることであり、日常生活の中で行えることばかりなのである。

(雑宝蔵経)
『和英対照仏教聖典』337頁7行~18行

富を得る方法(物語)

昔、貧しい絵かきがいた。妻を故郷に残して旅に出、三年の間苦労して多くの金を得た。いよいよ、故郷に帰ろうとしたところ、途中で、多くの僧に供養(くよう)する儀式の行われているのを見た。彼は大いに喜び、
「わたしはまだ福の種をまいたことがない。いまこの福の種をまく田地に会って、どうしてこのまま見過ごすことができようができよう。」と、惜しげもなく、その多くの金を投げ出して、供養し終えて家に帰った。
空手で帰った夫を見た妻は、大いに怒ってなじり問いつめたが、夫は、財物はみな堅固な蔵の中にたくわえておいたと答えた。その蔵とは何かと聞くと、それは尊い教団のことであると答えた。
腹を立てた妻はこのことをその筋に訴え、絵かきはとり調べを受けることになった。彼は次のように答えた。
「わたしは貴い努力によって得た財物をつまらなく費やしたのではない。わたしはいままで福の種を植えることを知らないで過ごしてきたが、福の種をまく田地というべき供養の機会を見て信仰心が起き、もの惜しみの心を捨てて施したのである。まことの富とは財物ではなく、心であることを知ったから。」
役人は絵かきの心をほめたたえ、多くの人びともこれを聞いて心をうたれた。それ以来、彼の信用は高まり、絵かき夫婦はこれによって、大きな富を得るようになった。

(雑宝蔵経)
『和英対照仏教聖典』287頁16行~289頁17行

幸福を生む方法

人は利己的な心を捨てて、他人を助ける努力をすべきである。他人が施すのを見れば、その人はさらに別の人を幸せにし、幸福はそこから生まれる。
一つのたいまつから何千人の人が火を取っても、そのたいまつはもとのとおりであるように、幸福はいくら分け与えても、減るということがない。

(四十二章経)
『和英対照仏教聖典』261頁15行~20行

恩を忘れるな(物語)

ヒマーラヤ山のふもとの、ある竹やぶに、多くの鳥や獣と一緒に、一羽のおうむが住んでいた。あるとき、にわかに大風が起こり、竹と竹とが擦れあって火が起こった。火は風にあおられて、ついに大火となり、鳥も獣も逃げ場を失って鳴き叫んだ。
おうむは、一つには、長い間住居を与えてくれた竹やぶの恩に報いるために、一つには、大勢の鳥や獣の災難を哀れんで、彼らを救うために、近くの池に入っては翼を水に浸し、空にかけのぼっては滴を燃えさかる火の上にそそぎかけ、竹やぶの恩を思う心と、限りない慈愛の心で、たゆまずにこれを続けた。
慈悲と献身の心は天界の梵天を感動させた。梵天(ぼんてん)は空から下って来ておうむに語った。
「おまえの心はけなげであるが、この大いなる火を、どうして羽の滴で消すことができよう。」おうむは答えて言う。
「恩を思う心と慈悲の心からしていることが、できないはずはない。わたしはどうしてもやる。次の生に及んでもやりとおす。」と。
梵天はおうむの偉大な志にうたれ、力を合わせてこのやぶの火を消し止めた。

人の性格

この世には三種の人がある。岩に刻んだ文字のような人と、砂に書いた文字のような人と、水に書いた文字のような人である。
岩に刻んだ文字のような人とは、しばしば腹を立てて、その怒りを長く続け、怒りが、刻み込んだ文字のように消えることのない人をいう。
砂に書いた文字のような人とは、しばしば腹を立てるが、その怒りが、砂に書いた文字のように、速やかに消え去る人を指す。
水に書いた文字のような人とは、水の上に文字を書いても、流れて形にならないように、他人の悪口や不快なことばを聞いても、少しも心に跡を留めることもなく、温和な気の満ちている人のことをいう。

(パーリ増支部3-130)

また、ほかにも三種類の人がある。第一の人は、その性質がわかりやすく、心高ぶり、かるはずみであって、常に落ち着きのない人である。第二の人は、その性質がわかりにくく、静かにへりくだって、ものごとに注意深く、欲を忍ぶ人である。第三の人は、その性質がまったくわかりにくく、自分の煩悩(ぼんのう)を滅ぼし尽くした人のことである。
このように、さまざまに人を区別することができるが、その実、人の性質は容易に知ることはできない。ただ、仏だけがこれらの性質を知りぬいて、さまざまに教えを示す。

(パーリ、増支部 3―113)
『和英対照仏教聖典』177頁2行~179頁3行

仕返しを願うものには災いが
つきまとうものである

人が心に思うところを動作に表わすとき、常にそこには反作用が起こる。人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。人はこの反作用に用心しなくてはならない。それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。それは風に向かってちりを掃くようなものである。それはちりを除くことにならず、自分を汚すことになる。
仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。

(四十二章経)
『和英対照仏教聖典』261頁4行~11行

怨みを静める方法(物語)

昔、長災王(ちょうさいおう)という王があった。隣国の兵を好むブラフマダッタ王に国を奪われ、妃と王子とともに隠れているうちに、敵に捕らえられたが、王子だけは幸いにして逃れることができた。
王が刑場の露と消える日、王子は父の命を救う機会をねらったが、ついにその折もなく、無念に泣いて父の哀れな姿を見守っていた。
王は王子を見つけて、「長く見てはならない。短く急いではならない。恨みは恨みなきによってのみ静まるものである。」と、ひとり言のようにつぶやいた。
この後王子は、ただいちずに復讐の道をたどった。機会を得て王家にやとわれ、王に接近してその信任を得るに至った。
ある日、王は猟に出たが、王子は今日こそ目的を果たさなければならないと、ひそかにはかって王を軍勢から引き離し、ただひとり王について山中を駆け回った。王はまったく疲れはてて、信任しているこの青年のひざをまくらに、しばしまどろんだ。
いまこそ時が来たと、王子は刀を抜いて王の首に当てたが、その刹那(せつな)父の臨終(りんじゅう)のことばが思い出されて、いくたびか刺そうとしたが刺せずにいるうちに、突然王は目を覚まし、いま長災王の王子に首を刺されようとしている恐ろしい夢を見たと言う。
王子は王を押さえて刀を振りあげ、今こそ長年の恨みを晴らす時が来たと言って名のりをあげたが、またすぐ刀を捨てて王の前にひざまずいた。
王は長災王の臨終(りんじゅう)のことばを聞いて大いに感動し、ここに互いに罪をわびて許しあい、王子にはもとの国を返すことになり、その後長く両国は親睦を続けた。
ここに「長く見てはならない。」というのは、恨みを長く続かせるなということである。「短く急いではならない。」というのは、友情を破るのに急ぐなということである。
恨みはもとより恨みによって静まるものではなく、恨みを忘れることによってのみ静まる。

(パーリ、律蔵大品、10―1―2)
『和英対照仏教聖典』459頁6行~463頁5行

人のそしりに動かされるな(物語)

釈尊(しゃくそん)がコーサンビーの町に滞在していたとき、釈尊に怨みを抱く者が町の悪者を買収し、釈尊の悪口を言わせた。釈尊の弟子たちは、町に入って托鉢(たくはつ)しても一物も得られず、ただそしりの声を聞くだけであった。
そのときアーナンダは釈尊にこう言った。「世尊(せそん)よ、このような町に滞在することはありません。他にもっとよい町があると思います。」「アーナンダよ、次の町もこのようであったらどうするのか。」
「世尊よ、また他の町へ移ります。」
「アーナンダよ、それではどこまで行ってもきりがない。わたしはそしりを受けたときには、じっとそれに耐え、そしりの終わるのを待って、他へ移るのがよいと思う。アーナンダよ、仏は、利益・害・中傷・ほまれ・たたえ・そしり・苦しみ・楽しみという、この世の八つのことによって動かされることがない。こういったことは、間もなく過ぎ去るであろう。」

(パーリ、法句経註)
『和英対照仏教聖典』241頁14行~243頁8行

衣・食・住のために生きているのではない

食物をとるにも楽しみのためにせず、身をささえ養って教えを受け、または説くためにしなければならない。
家に住むにも同じく、身のためにし、虚栄のためにしてはならない。さとりの家に住み、煩悩(ぼんのう)の賊を防ぎ、誤った教えの風雨を避けるためと、思わなければならない。

(大般涅槃経)
『和英対照仏教聖典』407頁8行~12行

食事の心得

おいしい食物を得ては、節約を知り、欲を少なくして執着を離れようと願い、まずい食物を得ては、永く世間の欲を遠ざけようと願うがよい。
また夏の暑さの激しいときには、煩悩(ぼんのう)の熱を離れて涼しいさとりの味わいを得たいと願い、冬の寒さの激しいときには、仏の大悲の温かさを願うがよい。

(華厳経第7、浄行品)
『和英対照仏教聖典』413頁5行~10行

寝る時の心得

夜眠るときには、身と口と意(こころ)のはたらきを休めて心を清めようと願い、朝目覚めては、すべてをさとって、何ごとにも気のつくようになろうと願うがよい。

(華厳経第七、浄行品)
『和英対照仏教聖典』413頁14行~16行

寒さ、暑さに対する心得

夏の暑さの激しいときには、煩悩の熱を離れて涼しいさとりの味わいを得たいと願い、冬の寒さの激しいときには、仏の大悲の温かさを願うがよい。

(華厳経第七、浄行品)
『和英対照仏教聖典』413頁8行~10行