「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたい
との願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて
編集しております。ここでは私たちにとって身近
な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただ
けるように、『和英対照仏教聖典』の言葉
から抜粋して、ご紹介いたします。
人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることの二つがある。誤ったものを求めることというのは、自分が老いと病と死とを免れることを得ない者でありながら、老いず病まず死なないことを求めていることである。
正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。今のわたしは、この誤ったものを求めている者にすぎない。
この世には五つの悪がある。一つには、あらゆる人から地に這(は)う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺(あざむ)き、互いに傷つけあい、いがみあっている。
二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。
四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。
五つには、すべてのものは怠(おこた)りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。
(無量寿経下巻)
『和英対照仏教聖典』191頁18行~193頁18行
教えのしかれている世界では、人びとの心が素直になる。これはまことに、あくことのない大悲によって、常に人びとを照らし守るところの仏の心に触れて、汚れた心も清められるからである。
この素直な心は、同時に深い心、道にかなう心、施す心、戒を守る心、忍ぶ心、励む心、静かな心、智慧(ちえ)の心、慈悲(じひ)の心となり、また方便(ほうべん)をめぐらして、人びとに道を得させる心ともなるから、ここに仏の国が、立派にうち建てられる。
三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。
妻子とともにある家庭も、立派に仏の宿る家庭となり、社会的差別の免れない国家でも、仏の治める心の王国となる。
まことに、欲にまみれた人によって建てられた御殿が仏の住所ではない。月の光が漏れこむような粗末な小屋も、素直な心の人を主とすれば、仏の宿る場所となる。
ひとりの心の上にうち建てられた仏の国は、同信の人を呼んでその数を加えてゆく。家庭に村に町に都市に国に、最後には世界に、次第に広がってゆく。
まことに、教えを広めてゆくことは、この仏の国を広げてゆくことにほかならない。
(維摩経)
『和英対照仏教聖典』465頁13行~467頁13行
この世の中には三つの誤った見方がある。
もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。
一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。二つには、ある人は、それはすべて神のみ業(わざ)であるという。三つには、またある人は、すべて因も縁もないものであるという。
もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何ものも存在しないことになる。
したがって、人びとに、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の中の進歩も改良もないことになる。
次に、神のみ業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難があびせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。
だから、この三つの見方はみな誤っている。どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。
(華厳経)
『和英対照仏教聖典』87頁15行~89頁18行
人びとの苦しみには原因があり、人びとのさとりには道があるように、すべてのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる。
雨の降るのも、風の吹くのも、花の咲くのも、葉の散るのも、すべて縁によって生じ、縁によって滅びるのである。
この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、また、この心も経験と知識とによって育ったものである。
だから、この身も、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない。
(勝鬘経)
『和英対照仏教聖典』81頁7行~15行
道を修めるものとして、避けなければならない二つの偏(かたよ)った生活がある。その一は、欲に負けて、欲にふける卑(いや)しい生活であり、その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。
この二つの偏った生活を離れて、心眼を開き、智慧を進め、さとりに導く中道(ちゅうどう)の生活がある。
この中道の生活とは何であるか。正しい見方、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一、この八つの正しい道である。
(パーリ、律蔵大品 1―6、転法輪経)
すべてのものは縁によって生滅(しょうめつ)するものであるから、有と無とを離れている。愚かな者は、あるいは有と見、あるいは無と見るが、正しい智慧(ちえ)の見るところは、有と無とを離れている。これが中道の正しい見方である。
(楞伽経)
『和英対照仏教聖典』113頁7行~115頁4行
ある人が、「夜は煙って、昼は燃える蟻塚(ありづか)。」を見つけた。ある賢者にそのことを語ると、「では、剣をとって深く掘り進め。」と命ぜられ、言われるままに、その蟻塚を掘ってみた。
はじめにかんぬきが出、次は水泡(すいほう)、次には刺又(さすまた)、それから箱、亀、と殺用の刀、一片の肉が次々と出、最後に龍が出た。
賢者にそのことを語ると、「それらのものをみな捨てよ。ただ龍のみをそのままにしておけ。龍を妨げるな。」と教えた。
これはたとえである。ここに「蟻塚」というのはこの体のことである。「夜は煙って」というのは、昼間したことを夜になっていろいろ考え、喜んだり、悔やんだりすることをいう。「昼は燃える」というのは、夜考えたことを、昼になってから体や口で実行することをいう。
「ある人」というのは道を求める人のこと、「賢者」とは仏のことである。「剣」とは清らかな智慧(ちえ)のこと、「深く掘り進む」とは努力のことである。
「かんぬき」とは無明(むみょう)のこと、「水泡」とは怒りと悩み、「刺又」とはためらいと不安、「箱」とは貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・怠(おこた)り・浮わつき・悔い・惑(まど)いのこと、「亀」とは身と心のこと、「と殺用の刀」とは五欲のこと、「一片の肉」とは楽しみを貪り求める欲のことである。これらは、いずれもこの身の毒となるものであるから、「みな捨てよ」というのである。
最後の「龍」とは、煩悩(ぼんのう)の尽きた心のことである。わが身の足下を掘り進んでゆけば、ついにはこの龍を見ることになる。
掘り進んでこの龍を見いだすことを、「龍のみをそのままにしておけ。龍を妨げるな。」というのである。
(パーリ、中部 3―23、蟻塚経)
『和英対照仏教聖典』251頁3行~253頁11行
ここにもう一つのたとえがある。ひとりの男が罪を犯して逃げた。追手が迫ってきたので、彼は絶体絶命になって、ふと足もとを見ると、古井戸があり、藤蔓(ふじつる)が下がっている。彼はその藤蔓をつたって、井戸の中へ降りようとすると、下で毒蛇(どくじゃ)が口を開けて待っているのが見える。
しかたなくその藤蔓を命の綱にして、宙にぶら下がっている。やがて、手が抜けそうに痛んでくる。そのうえ白黒二匹の鼠が現われて、その藤蔓をかじり始める。
藤蔓がかみ切られたとき、下へ落ちて餌食にならなければならない。そのとき、ふと頭をあげて上を見ると、蜂の巣から蜂蜜の甘いしずくが一滴二滴と口の中へしたたり落ちてくる。すると、男は自分の危い立場を忘れて、うっとりとなるのである。
この比喩(たとえ)で、「ひとり」とは、ひとり生まれひとり死ぬ孤独の姿であり、「追手」や「毒蛇」は、この欲のもとになるおのれの身体のことであり、「古井戸の藤蔓」とは、人の命のことであり、「白黒二匹の鼠」とは、歳月を示し、「蜂蜜のしずく」とは、眼前の欲の楽しさのことである。
(雑宝蔵経)
『和英対照仏教聖典』179頁16行~13行
ここに人生にたとえた物語がある。ある人が、河の流れに舟を浮かべて下るとする。岸に立つ人が声をからして叫んだ。「楽しそうに流れを下ることをやめよ。下流には波が立ち、渦巻きがあり、鰐(わに)と恐ろしい夜叉(やしゃ)との住む淵(ふち)がある。そのままに下れば死ななければならない。」と。
このたとえで「河の流れ」とは、愛欲の生活をいい、「楽しそうに下る」とは、自分の身に執着(しゅうじゃく)することであり、「波立つ」とは、怒りと悩みの生活を表わし、「渦巻き」とは、欲の楽しみを示し、「鰐と恐ろしい夜叉の住む淵」とは、罪によって滅びる生活を指し、「岸に立つ人」とは、仏をいうのである。
(パーリ、本事経 100)
『和英対照仏教聖典』179頁5行~15行
人間世界において悪事をなし、死んで地獄に堕(お)ちた罪人に、閻魔王(えんまおう)が尋ねた。「おまえは人間の世界にいたとき、三人の天使に会わなかったか。」「大王よ、わたくしはそのような方には会いません。」
「それでは、おまえは年老いて腰を曲げ、杖(つえ)にすがって、よぼよぼしている人を見なかったか。」「大王よ、そういう老人ならば、いくらでも見ました。」「おまえはその天使に会いながら、自分も老いゆくものであり、急いで善をなさなければならないと思わず、今日の報(むく)いを受けるようになった。」
「おまえは病にかかり、ひとりで寝起きもできず、見るも哀れに、やつれはてた人を見なかったか。」「大王よ、そういう病人ならいくらでも見ました。」「おまえは病人というその天使に会いながら、自分も病まなければならない者であることを思わず、あまりにもおろそかであったから、この地獄へくることになったのだ。」
「次に、おまえは、おまえの周囲で死んだ人を見なかったか。」「大王よ、死人ならば、わたくしはいくらでも見てまいりました。」「おまえは死を警(いまし)め告げる天使に会いながら、死を思わず善をなすことを怠って、この報いを受けることになった。おまえ自身のしたことは、おまえ自身がその報いを受けなければならない。」
(パーリ、増支部 3―35)
『和英対照仏教聖典』185頁14行~187頁15行
裕福な家の若い嫁であったキサーゴータミーは、そのひとり子の男の子が、幼くして死んだので、気が狂い、冷たい骸(むくろ)を抱いて巷(ちまた)に出、子供の病を治す者はいないかと尋ね回った。
この狂った女をどうすることもできず、町の人びとはただ哀れげに見送るだけであったが、釈尊(しゃくそん)の信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の釈尊のもとに行くようにすすめた。彼女は早速、釈尊のもとへ子供を抱いて行った。
釈尊は静かにその様子を見て、「女よ、この子の病を治すには、芥子(けし)の実がいる。町に出て四・五粒もらってくるがよい。しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者の出ない家からもらってこなければならない。」と言われた。
狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家は、どこにも求めることができなかった。ついに求める芥子の実を得ることができず、仏のもとにもどった。かの女は釈尊の静かな姿に接し、初めて釈尊のことばの意味をさとり、夢から覚めたように気がつき、わが子の冷たい骸を墓所(ぼしょ)におき、釈尊のもとに帰ってきて弟子となった。
(パーリ、長老尼偈註)
『和英対照仏教聖典』187頁16行~189頁15行
この世において、どんな人にもなしとげられないことが五つある。一つには、老いゆく身でありながら、老いないということ。二つには、病む身でありながら、病まないということ。三つには、死すべき身でありながら、死なないということ。四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということである。
世の常の人びとは、この避け難いことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みをいだくことはない。
(パーリ、増支部 5-49)
『和英対照仏教聖典』95頁7行~17行
この世に四つの真実がある。第一に、すべて生きとし生けるものはみな無明(むみょう)から生まれること。第二に、すべて欲望の対象となるものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第三に、すべて存在するものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第四に、我(が)も、わがものもないということである。
(パーリ、増支部 4―185)
すべてのものは、みな無常であって、うつり変わるものであること、どのようなものにも我がないということは、仏がこの世に出現するとしないとにかかわらず、いつも定まっているまことの道理である。仏はこれを知り、このことをさとって、人びとを教え導く。
(パーリ、増支部3-134)
『和英対照仏教聖典』95頁18行~97頁9行
迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。
(楞伽経)
人の心の変化には限りがなく、そのはたらきにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。
絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。仏の作る世界は、煩悩(ぼんのう)を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚れている。
(華厳経第2、盧舎那仏品)
心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。
すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。
(華厳経第16、夜摩天宮品)
『和英対照仏教聖典』97頁11行~99頁8行
この世の中に、さとりへの道を始めるに当たって成し難いことが二十ある。
1、貧しくて、施すことは難く
2、慢心にして道を学ぶことは難く
3、命を捨てて道を求めることは難く
4、仏(ほとけ)の在世に生を受けることは難く
5、仏の教えを聞くことは難く
6、色欲を耐え忍び、諸欲を離れることは難く
7、よいものを見て求めないことは難く
8、権勢を持ちながら、勢いをもって人に臨まないことは難く
9、辱(はずかし)められて怒らないことは難く
10、事が起きても無心であることは難く
11、広く学び深く究めることは難く
12、初心の人を軽んじないことは難く
13、慢心を除くことは難く
14、よい友を得ることは難く
15、道を学んでさとりに入ることは難く
16、外界の環境に動かされないことは難く
17、相手の能力を知って、教えを説くことは難く
18、心をいつも平らかに保つことは難く
19、是非をあげつらわないことは難く
20、よい手段を学び知ることは難い
(四十二章経)
『和英対照仏教聖典』263頁5行~265頁3行